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『 The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ 』に観るソフィア・コッポラの挑戦

ソフィア・コッポラほど、その評価を二分する映画監督はなかなかいないだろう。わたしスピルバーグきらーい、とか、クリスタファー・ノーランあわないんだよねー、という意見はもちろんあるだろう。しかし、スピルバーグもノーランもどちらかといえば高評価のほうが多いだろう。だが、ソフィア・コッポラの場合、ぼくの周りで映画が好きな人たちの評価を聞くと、ほぼ半々と言った感じだ。

悪い評価でいえば、一番多いのが親の七光りで話題になっているだけだよ、というかなり理不尽な評価だ。『地獄の黙示録』『ゴッド・ファーザー』の監督であり、アメリカ映画の巨匠であるフランシス・フォード・コッポラの娘という理由だけで彼女は評価されているのだ、という意見だ。あとは退屈だとか、なに言いたいのかわかんない、とか、つまり、何が面白いのかわからない、というのが低評価側の意見だ。

これはたしかに彼女の映画の特徴である。彼女の映画を評するとき、決めてとなる良い表現はたしかに見つかりにくい。女性目線ならではの人物描写とか、先端のポップシーンを切り取ったサウンドとか、現代における孤独というものはなんなのか、とか、まぁ、なんとなく良い部分を拾い集めてくることは可能だが、それでも、なんだか言葉が上滑りしているだけのような気がしてならない。それでいて彼女の映画はポップアートのように、とても表層的でなおかつ多角的な表現を行うので、ただコンテキストを見繕ったとしても、それは彼女の映画のひとつの側面を捉えているだけであって、的確であるかどうかはとても怪しいような気がしてくる。

だから、彼女の映画を褒めて、人に勧めようにも、評価している自分が本当にちゃんと評価できているのか自信をなくしてしまうのだ。もっと的確な、良い表現があるような気がするのになぁ、と思いながら人に話しても、それはちゃんと人には伝わらない。そういうあやふやでもどかしい気持ちにさせるのが彼女の映画の(良い意味でも悪い意味でも)特徴なのだ。

ソフィア・コッポラの映画を知らない人のために、彼女のフィルモグラフィーを簡単に紹介しておこう。

先に言っておけば、僕は彼女のデビュー作である『ヴァージン・スーサイズ』をまだ観れていない。だから彼女の映画監督としての原点を知らないまま、このテキストを書いている。だから、いま、この時点ですでに、もやもやした気分で書かざる得ないことで、すでに自信を喪失し気味だ。

僕が最初に観た彼女の映画は監督2作目である『ロスト・イン・トランスレーション』だ。東京を舞台にしたハリウッド映画で、さらにフランシス・フォード・コッポラ監督の娘が監督して、ついでに藤井隆が出演もしているということで、公開当時はテレビなどでも話題になったことを覚えている。

ハリウッドでは落ち目の俳優で、日本のTVコマーシャルに出演するために来日した中年男性(ビル・マーレイ)と、同じホテルに滞在していた写真家の夫についてきたもののほとんど1人で過ごすことになる女性(スカーレット・ヨハンソン)との友情の物語だ。生活に不満がある訳ではないものの、どこか孤独を抱えている2人が出会い、東京という言葉が通じない人たちに囲まれた不思議な街を冒険し、この国で唯一コミュニケーションがとれ、孤独という境遇を持ち、心が通じ合う者同士が惹かれ合っていくという物語だ。

ソフィア・コッポラ自身が日本に滞在した時期があり、言葉が通じないことで感じた孤独さという体験が、この映画の原点となっているという。

この、いまの生活に不満があるわけではないけれど、どこか不満があり、空虚で、家族や恋人がいるのに孤独を感じるという心情は、ソフィア・コッポラの映画のひとつの軸となり、これは次作である『マリー・アントワネット』においても全面的に押し出されている。

マリー・アントワネットという歴史的な人物…ベルサイユ宮殿に住み、贅を尽くした生活をし、最終的には革命によって処刑され、悪い貴族の典型のように知られている人物を、1人の少女としての視点から描いている。
オーストリアから14才で単身フランスの王宮へ移り、さらに一度もあったことがない男性(ルイ16世)のところに嫁ぐことになった彼女は、どのような心情だったのか、そして何故、彼女は豪遊し、最終的に破滅へと向かったのかを、歴史的な事実を参考にし、想像して描いている。

そのため史実と違う部分が見られ、歴史映画としてはほぼ破綻しているのだが(なにせマリー・アントワネットのアイテムのなかにコンバースのスニーカーが出て来る。やりすぎの感はあるが、現代の少女たちとリンクするものが欲しかったのだろう)、彼女がどのような心情だったのか、という考察(想像)は徹底され、そこに現代に住む私たち(あるいは女性たち)にも、その心情が理解できるように意図的にアレンジされていると取ることもできる。

事実、この映画の視点は非常に複雑であり、客観的な説明としての視点、マリー・アントワネット個人の視点、同世代の少女としての視点、映画監督としてのソフィア・コッポラの目線、この映画をいま観ている観客としての客観的でありながら共感している(だろう)視点が、複雑にスライドし、なおかつ二重の視点であるシーンもある。例えばルイ16世とのベッドシーン(彼女の最も大きな仕事は世継ぎを生むことだ)では、彼女の役職(王女)を果たさなければいけないという客観的な説明としての視点、そして、出会ったばかりのよくわからない男性(しかもコミュ障で、性への関心があまりなく、日中に会うことはほとんどない男性)とセックスをしなければならないことに同情する女性としての視点、それでもひとりの女性として夫を愛したいというマリー・アントワネットの視点、それにドラマとして共感する視点などがカットごとにスライドしていく。この視点というのは、シーンのなかの要素としての視点、つまりこのシーンはこういう風に捉えることができるよね、ということではなく、いまスクリーンに写し出されている映像は誰の視点なのかということだ。

映画とは常に誰かが観ている映像を追体験していることに他ならない。それが登場人物の主観であったり、監督の目線であったり、説明としての映像であったりするだけだ。

ソフィア・コッポラは、その視点を(意識的なのか、天賦の才能なのかはさておき)複雑に持ち、なおかつそれをひとつの映像(あるいは物語)としてまとめることができる稀有な映画監督であることはたしかであり、その才能が如実に現れたのが『マリー・アントワネット』だった。

『マリー・アントワネット』以降の作品である『SOMEWHERE』、『ブリングリング』では、彼女の物語の軸である、少女期のあやふやな不安や孤独、そして複雑な視点構成を、時に自らの過去の思い出をトレースして、深めていった。

そして彼女ならではのリアリズムの作り方…『マリー・アントワネット』でコンバースのスニーカーが出てきたようなポップなリアリズムと、現代のポップシーンを取り入れた音楽表現でのリアリズムは彼女ならではの表現として、確立していった。

そこで、今回の『ビガイルド 欲望のめざめ』である。

71年に公開された『白い肌の異常な夜』のリメイク(主演はクリント・イーストウッド)であり、舞台は19世紀、南北戦争真っ只中のアメリカを舞台にした映画だ。物語は、戦時中、実家に帰ることができなかった7人の学生と教師が暮らしている女学校で、ある日、少女が負傷したひとりの敵軍の兵士を匿うところから始まる。敵軍でありながら、ふだん男性と接する機会が少ない少女たちと教師たちは、彼の紳士的な振る舞いに惹かれていく。やがて、彼女たちは自分だけが兵士に気に入られたいと思い始める。

正直にいって、この映画を観るまえには、いったいどのようなポップなリアリズムが挟む込んでくるのだろうと思っていた。『マリー・アントワネット』でのスニーカーに映画ファンは度肝を抜かれ、あるいは呆れたのだ。だから、次の一手はなんなのだろう、と思うのは当然だ。

だが、映画を観ている途中から、どうもおかしいと感じ始めた。

ポップな表現が皆無なのだ。

スニーカーも現れなければ、ポップミュージックも流れない。それどころか音楽もほとんど流れない。(音楽を担当したフェニックスも驚いたのではないか)

そして気づいた。彼女はポップ的なリアリズムを封印し、より彼女自身の生理的な感覚に近いリアリズムに挑戦しているのだ。さらに言えば、映画的なクラシックなリアリズムな表現に、彼女がこれまでに培ってきた感覚を武器に真正面から挑んだ挑戦だ。
彼女の女性ならではの視点、複雑な視点構成に加え、光の表現、服の質感などといった物理的なリアリズムと、登場人物の繊細でときに大体な演技としてのリアリズム、そして起承転結があるクラシックな物語としてのリアリズム。どれも映画では当たり前のことではあるが、なにか飛び抜けた個性がある映画が求められる昨今において、自らの個性を封印して、なおかつこれまでに培った感覚、感性でクラシックなリアリズムをジャッジし、映画とするのは、地味ながらも大きな挑戦ではないか。

しかし、残念ながら、この挑戦は大いに成功したとは言い難い。

どの表現も非常に丁寧であり、美しいと思うシーンもあるのだが、どのシーンも抑揚がなだらか過ぎるように思える。緊張感のあるシーンとおだやかなシーンの差はたしかにあるが、サスペンスとしてクラシックな映画表現では、いまの映画に慣れてしまっている者としてはゆるく感じてしまう。いうならばクラシックなリアリズムに徹するあまり、これまでのポップでつらぬくようなリアリズムを廃したことが悪い意味で反映されてしまっているようにも感じるのだ。

これはまだ彼女なりの挑戦の、映画としての落とし所がまだつかめていないことの現れだろう。そのため、彼女が得意としているところは優れているが、全体としては中途半端に感じてしまう。

これから彼女が、この挑戦を続けるのか、あるいはポップなリアリズムに今回の挑戦の成果を持ち帰って新たな表現に挑むのかわからない。

だが、ソフィア・コッポラという類まれな才能を持つ映画監督を語る上で、重要な試金石である作品であることは間違いなさそうだ。

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2018-04-25 | Posted in hakariuri, 未分類

ライター紹介

西出 元

Nomiru ディレクター、撮影、イラスト、会議中に腹が減ったと晩御飯へと促すことを主に担当。企画が進まない原因の一人。
ディズニーランドとUSJに行ったことがなく、それに対する憧れが高まっていき、ハードルが上がりすぎて逆に行けなくなっているが最近の悩み。
好きなお酒は辛口の冷酒。好きな肴は白子ポン酢。


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