酒とアート、飲むと観るでノミルです

夢と魔法と行列の王国 その2

東京駅に着いた僕と友人たちは、駅から出ずにそのまま京葉線へと乗り換える。
東京に来るのは2年ぶりくらいだろうか。以前は、気が向いたら一人でふらりと夜行バスに乗り、いくつか展覧会を観て、その日のうちに新幹線で帰宅するという、目的不明の0.7泊旅行を何回かしていた。
誰かに会うわけでもなく、明確に何かを観たい訳でもなく、ましてやディズニーランドに行く訳でもない。その旅行は、ただ一人で知らない街をぶらぶらと歩くだけの旅行だ。それだったら、別に東京でなくても、どこでもいいのかもしれない。だけど、東京という何処に行っても人がいて、なおかつ詳しくない、という環境こそ、逆に一人でいるという実感が得られる。京都だと知り合いに会う可能性が高いし、大阪だとその土地に(ある程度)詳しい。孤独や寂しさを求めてる訳ではないので地方は論外だ。周りに自分と違う時間を過ごしている見知らぬ人たちがいるからこそ、手軽に一人の時間を楽しめる。一人でカフェにいき、ボーッとすることの拡大版だと言えば伝わりやすいだろうか?
しかしながら、今日は、そういう一人の日でもなければ、目的が”ない”ということもない。人もいれば、目的もある。そう、僕たちはいまディズニーランドに向かっている。これほど確固たる目的なんて、そうそう(少なくとも僕の人生には)ない。
それにしても、京葉線があれほど混み合っているとは思わなかった。僕らはなんとか席に座ることができた。朝8時過ぎの土曜日。おでかけにはうってつけの時間ではあるけれど。
そして舞浜駅で降りるときに気づいたが、ほぼ全員、舞浜駅に、ディズニーランドの最寄り駅で降りるのだ。駅から降りた大勢の人たちは、やはりほぼ全員、ディズニーランドに向かう。舞浜駅の周りにはディズニーランド(あるいはディズニーリゾート)しかないので(たぶん)、それはそうだろうと思うのだけど、これほど大勢の人が同じ場所へ吸い込まれるように向かう景色はなんだか不思議な感じだ。なんとなくだけど、お伊勢参りとかメッカに向かう人たちを思い浮かべてしまった。でも、それはそれほど間違った妄想ではないのかもしれない。彼らにとって、それは聖地にほかならないのだから。
聖地巡礼にはいささか不届き気者感がある僕たちは集団から少し離れ、駅のコインロッカーに荷物を預けることにした。ディズニーランドの中にもコインロッカーはあるのかもしれないが、ガイドブックによると駅で預けておくほうが帰りの混雑を避けることができるのだそうだ。僕も荷物を預けたが、おかげで手ぶらになってしまった。大人になったら手ぶらでブラつくのはよくないよ、とよく言われたものだが、いまだに手ぶらであることが多い。そしてはたと自分が手ぶらであることに気づくと(無意識に手ぶらになってしまうのですね)なんだか悪いことをしているような気がしてくる。そして、いまがまさに、そのような気分だ。聖地に訪れるのに手ぶらとは何事だという気分になってくる。しかし、ロッカーはすでにコインを入れられ、鍵はポケットの中にある。もっと言えば、僕たちはコインロッカーからすでに数十メートル離れていた。何事もそうだが、気づいた時にはもう遅いのだ。そして戻ってコインロッカーを開けたとしても、何かが劇的に変わる訳ではない。戻るとすれば、昨日の時点でディズニーランドの中でどのような持ち物で挑むべきなのか考えなければいけなかったのだ。しかし昨日に戻ることはできない。つまり、改めて言うと、気づいたときにはもう遅いのだ。人生はその連続である。それが些細であるか、重大であるか、その違いでしかない。
だが、手ぶらであることは、そのすぐあとに、些細なことながら恥ずかしい思いをすることになる。ディズニーランドのゲートに入るまえ、つまりチケット売り場より前にもうひとつのゲートが存在し、そこで手荷物検査が行われていたのだ。世界的に有名なキャラクターのテーマパークとなると安全性の確保もたいへんなのだろう。そしてディズニーランドに来るほとんどの人も、それを理解しているようで皆素直にカバンの中を係員に見せている。リュックとか手提げバッグとかを。しかし私は手ぶらだった。先にも言ったように、すべて駅のコインロッカーに入れてしまったのだ。財布や携帯電話はポケットの中にあるので行動には問題ないが、みんながカバンを見せているなかで「わたしは何ももっていません」というのも、やはり恥ずかしい。「手ぶらで来たの?」という目で見られたらどうしようかと思う。かといって、無いカバンを出すわけにもいかない。大げさにジェスチャーで”わたしは、かばんをもっていない”と表現するべきか。あるいは”手ぶらで来ることこそ通なんだ”と見栄を張ってクールにやり過ごすか。はたまた”手ぶらなんです。すいません”となぜか謝るか。
列の動きはゆっくりだが、確実に前に進んでいる。ディズニーのキャラクターに扮した人たちが和やかにチェックを受けるのを待っている。彼らのカバンには必ずと言っていいほど、キャラクターのストラップや缶バッジのようなものが付いていた。かばんのデザインがディズニーであることもあった。キャラクターに扮したり、グッズをつけることで気分を高めているのだ。形から入ることも、楽しむためには大事なことだ。しかし、自分には何もなかった。服装だって、ディズニーのデの字もないのだ。キャラクターグッズをつけれるはずのカバンだってないのだ。カバンがあったとしてもついていないのだから、もはやどうしようもない。
ディズニー的な格好した人たちがディズニーのキャラクターをつけたカバンの中身を見せる。係の人が笑顔で頷く。係の人とお客さんのあいだで一種の共有感がそこに見て取れる。きっと、そういうパスなのだ。荒廃した世界の映画で、行列に並んでいると「てめぇ、見ねぇ顔だな?そしてその服はなんだ?さてはてめぇ、よそもんだな?!」と係の荒ぶれものに因縁を付けられ、首に鎖をまかれ、どこかに引きづられていき拷問されるシーンが頭に思い浮かんだ。映画はマッド・マックスだったかもしれない。もちろん、ここは”そういう”世界ではないので、”そういう”事は起きない。それはただの妄想だ。実際にはあっさりと「荷物はないです」「わかりました。はい、どうぞ、次のかたー」で終わってしまったのである。それはそうだろう、と思うかもしれない。僕だって、いまだったらそう思う。
でも、そのとき、僕はディズニーランドを前にして気分が高鳴っていたのかもしれない。そのせいでちょっとでも引っ掛かりがあると変な方向に想像力が普段以上に広がってしまったのだ。
そして無事に荷物検査を終えた僕たちは、ようやくディズニーランドのゲートをくぐることになる。

(つづく)

2016-05-03 | Posted in danpen

ライター紹介

西出 元

Nomiru ディレクター、撮影、イラスト、会議中に腹が減ったと晩御飯へと促すことを主に担当。企画が進まない原因の一人。
ディズニーランドとUSJに行ったことがなく、それに対する憧れが高まっていき、ハードルが上がりすぎて逆に行けなくなっているが最近の悩み。
好きなお酒は辛口の冷酒。好きな肴は白子ポン酢。


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