酒とアート、飲むと観るでノミルです

『絵を描くこと、空想すること』前編

ノミルのナカミ 1 『絵を描くこと、空想すること』

濱野裕理×鳥居本顕史

ノミルの新しい企画として、ノミルを作っている僕たちノミルスタッフに焦点を当てたミニシリーズ「ノミルのナカミ」が始まります。

ノミルが始まって1年半。徐々にですが読者も増えてきています。そこで改めてノミルを作っている僕たちは何者なのか?ということを、ゲストを迎えての対談や趣向を変えて紹介していこうと思います。

その第1弾は「ノミル会席」でのインタビュアーや「はまののえにっき」のライターである濱野さんにスポットをあてます。
今回はノミルのライターではなく「美術家としての濱野裕理」として登場。
大学では油画を専攻し、卒業から現在に至るまで絵を描き続けている濱野さん。
彼女はどのような作品を作り、そしてどのような想いで制作をつづけてきたのか?
インタビュアーやライターの時とはまた違った一面の彼女と、その作品の魅力に迫ります。

聞き役としてノミル会席01にご出演いただき、豊富な知見を丁寧に楽しく語っていただいた美術家の鳥居本さんを再びゲストに迎え、濱野作品を考察していきます。
司会はノミル編集長の伊藤が担当。伊藤は濱野さんの作品を学生時代から観つづけ、その変革を知っている人物です。

短い対談ですが、濱野さんの作品を前にして行われた3人の作家による濃密なディスカッションをお楽しみ下さい。


ゲスト 
鳥居本顕史さん(とりいもと たかふみ)
美術家。
京都精華大学、同大学大学院 版画専攻を修了。現在、京都市立芸術大学 大学院 博士(後期)課程 版画領域に在籍。
出品参加した主な展覧会として、「Re: print」(室町アートコートギャラリー/京都/2010年)、「IDOLASPECUS.」(CAVE/京都/2011~12年の1年間の展示企画)、「インテリムショウ2015」(京都市立芸術大学博士棟/京都/2015年)などがある。
2017年1月に京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて、自身初となる個展を予定。
また2015年4月よりノミルスタッフの西出とともに、シルクスクリーン制作工房「京都孔版」を立ち上げ、現在オープンに向けて準備を進めている。
ノミルには「ノミル会席01 シェアしてきづいた僕たちのいきかた」に出演。

濱野裕理(はまの ゆり)
美術作家。
京都嵯峨芸術大学 造形学科油画分野を卒業。以後、作家活動を続けている。
出品参加した主な展覧会として「Kyoto Current」(京都市美術館別館/京都/2010年)、「リキテックスアートプライズ2014」(3331 Arts Chiyoda/東京/2014年)、「神戸アートマルシェ2015 ARTIST meets GARELLRY in KAM」(神戸メリケンパークオリエンタルホテル12F/兵庫/2015年)、「あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない」(ギャラリーモーニング/京都/2015年)などがある。
また2016年9月13日よりギャラリーモーニングにて個展「水色だった日々。」を開催。(個展の詳しい情報はこちら
ノミルには準備段階から関わり、現在もスタッフ兼ライターとして活動している。
ノミルの担当コンテンツとして「はまののえにっき」「気まぐれDIY女子」など。

伊藤仁(いとう ひとし)
ノミル編集長。
ウェブディレクター、料理研究家など。
京都嵯峨芸術大学 、同大学大学院 造形絵画分野を修了する。
その後、制作事務所である「アットプラス」を設立。
2014年にウェブマガジン「ノミル」を立ち上げる。
ノミルでの担当コンテンツとして「ひとたんのまるでヒトゴト!」「伊藤レシピ」など。

撮影・構成・編集 西出元(ノミル)


最近は特に「描かないことで表現できるもの」をすごく意識しているんです。

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『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』©yuri hamano

伊藤

こんにちは、ノミル編集長の伊藤です。
今回はノミルのスタッフに焦点をあてた企画の第1弾として、ノミルのライターであり、美術作家としても活動している濱野さんにスポットを当てた対談を行います。
またゲストとしてノミル会席の第1回にもご登場いただきました美術家の鳥居本さんにお越しいただきました。
この対談では濱野さんに自らの作品を語ってもらうことはもちろんなのですが、彼女自身がそのようなことにあまり慣れていないということもあり、聞き手として鳥居本さんの力もお借りすることにしました。僕も含めて3人で語り合い、作品や制作における濱野さんの想いを言語化、または言語化するためのヒントを見つけることができたらと思います。
作品を語る上で、やはり本物の作品が必要だと思いましたので、ノミル編集部を特設のギャラリーに見立て、濱野さんの作品の展示を行いました。今日は、そのような濱野作品に囲まれて対談を行おうと思います。
さて、対談が始まる前に作品を観ていただきましたが、鳥居本さんは濱野さんの作品をご覧になって率直にまず、どう思われましたか?

鳥居本

(濱野の絵を観ながら)
…濱野さんは描ける人ですよね。
実際には、もっと具象にしようと思えばできちゃう人ですよね?

濱野

そうですね。できます。

鳥居本

でもそこは、ここで止めている。
それは心象風景みたいなものに関わってくるわけですか?

濱野

そうです。
あえて背景などを描いていないところがあります。

鳥居本

いまの「描けちゃう人」と言ったことと関係してくるのですが、僕自身は「絵作り」というのは危険な気がしているんです。
描いたものが絵として成立してしまう。それは技術的に作品が出来てしまうという意味で危険な気がしているんですね。
でも、実際のところ、その人が絵を描くときに「ここで手を止める」ことや「ここは描いてここは描かない」というのは、その人が出したいリアリティーの部分に関わっていて、そのリアリティの側が描く手を止めさせる、ということなのだと思っています。
そのあたりの、濱野さんの絵に込めるリアリティーについてちょっと聞きたいな、と。
例えばあの飛行機の影は、影だけがあって本体がない。
絵作り的には、この隙間に(モチーフをとりあえず)置いてしまう、みたいなこともあると思う。
だけど、そうじゃない理由がきっとあって、それは何なのかということを聞きたいですね。

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例えばあの飛行機の影は、影だけがあって本体がない。(鳥居本)|『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』部分©yuri hamano

濱野

そうですね…。
私にとって絵を描くことは、いま自分自身がいる、この現実の世界と離れて「絵の中の世界」「想像の世界」に心を集中することなんですね。
それは自分が、いまいる世界とまたちょっと別の世界に入っていけるきっかけとなる行為だと思っています。
その上で(絵を)見ている人にも自分が今いる現実とは違う自分の内面の世界であったり、空想の世界や、そういうところに入っていくきっかけを作る絵を描きたいなと思っていて…。
それで、私自身の心象風景や自分の心のなかに思い浮かんだモチーフを描いているんですけど、具体的にこれを描いてあれを描いて、背景はこうでというふうにしてしまうと、それは私の「マイワールドを見てください」という感じになる気がします。
だけど私が見てもらいたいのは「マイワールド」ではなくて、見ている人が自分自身の過去を思い出したり空想できるような、ただの「きっかけ」となるだけでいいんです。
だから、私の主張を見せたいというよりは、私の絵が、今いる現実からちょっと違う世界に意識を持って行ってもらえるような入り口になればいいかなと思っています。

鳥居本

そこで詳細に描く必要はなくなってくる…。

濱野

そうです。
逆に描きすぎることは効果的じゃない。「私を見て」という作品になってしまう。
だから最近は特に「描かないことで表現できるもの」をすごく意識しているんです。

鳥居本

その方がすごくいいと思う。
特に展示などの話になってくると「自分を見て!」というような作品を自分で展示構成することほど意味のないものはないというか…。

濱野

すごく自分の世界観を持っていて、それを全面に出している人もいて、それを否定するわけではないです。
誰にも真似できないものを作っている人は面白い。
だけど、私はそうじゃないな、とは思っています。

伊藤

さきほどの鳥居本さんの話にもでてきた細かいモチーフ──例えば飛行機の影というのは「濱野さんにとって」というより「見ている人のために」描いてるものということですか?

濱野

うーん…でも完全に「鑑賞者のため」だけという訳ではないですね。
描くものとしては、小さい頃に見て印象に残っていたり、好きだったものをモチーフとして描いています。
そのときに心がけているのは、ありきたりな形や、誰もが知っていて見たことがあるようなものなど、普遍的な物の形を追うようにすること。逆に私にしか思い浮かばないような変なものや、突飛なものを描いたりはしないです。
こういう家の形を見てもらっても「三角屋根の、見るからに家だな」という形で、この家がどこのなんという建物かは断定しない。背景も奥行きは感じるものの曖昧でどういう場所に立っているかは常に不確かな状態にしておきたい。
だからこの絵は「私があの日あの場所で見たあの風景なんですよ」と言ってしまわないように、絵の中に余白を持たせるようにしています。 

鳥居本

この絵の地平線がちょっと無くなっているというか、隠れているところがすごく好きなんですけど…、でも、ここにある4つの作品のうち3つには(地平線が)描いてありますよね。
それがわりと現実的な世界に引き戻されるような効果があるのかな、と思うのですが。

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『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』©yuri hamano

濱野

地平線や水平線は気になる人には気になるみたいですね。ただ、最近の作品になるほど、地平線や水平線は不鮮明になっています。
鳥居本さんが指摘された作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)も、この中では最も最近の絵です。
地平線や水平線を描いていたのは、それは人が何か考え事をしたり、物思いにふけるときに、身近にある細々としたものや日常の雑踏から目を逸らして、空や海などの遠い場所を眺めたくなるときがありますよね。それで、絵の中にそういう目線を取り入れたかったんです。
でも、それすらを描かず曖昧にすることで絵の奥行き感もどこまであるかわからない、観る人側に想像してもらう、考えを委ねる部分が増えたのかもしれません。

鳥居本

こういった公園にあるような遊具で、こんなに広いところに建ってることはありませんよね。
(普通は)必ず範囲が決められた中に、範囲に合った形・大きさの遊具が置いてあったりする…。
それでいうと、その範囲をキャンバスの大きさが逆に作ってしまっているような気がしないでもないですね。

伊藤

と言うと?

鳥居本

この作品(『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』)は空想している空間の広さが広いから大きいキャンバスでやっている。
こちらの作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)の遊具もモチーフのサイズに合ったキャンバスに感じる。
でも実際には、濱野さんが言っている空想の規模というのはすごく広くて、それにしてはモチーフの入り方が大きいような感じもするな、と、いま聞いていて思ったんです。

濱野

それはもうちょっと画面に対してモチーフがポツンとあってもいいということですよね。

鳥居本

この作品(『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』)みたいに、空間の広がりが横にずーっと続いていて、その広がりの中に遊具が描かれていることや、そういう、中心があるようでないような壮大さが、いま聞いている感じだと合っているのかな。
例えばこの作品(『Landscape of my mind』)だと中心にドカっと建つ家を見るよりも、むしろ、この飛び去っていきそうな鳥を見る方が合っている気がする。
広がりのある空想の“入り口”を表す時には多分、これ(家)がなくて、鳥だけ描かれているだけでもいい。
この作品(『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』)にはいま描かれている以上に広い世界観があると思うけど、この飛行機は本体がなくて影だけというところがその広がりを表していて面白い。しかもこれから枠外に出ようとしている位置にいるわけですからね。それとこの鳥には、同じようなものを感じます。

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『Landscape of my mind』©yuri hamano

□空想の裂け目みたいなものだけ描いてる。

伊藤

この大きな作品(『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』)は一番古い作品なんですよね?

濱野

そうですね。2008年の作品です。

伊藤

去年(2015年)の個展の時にも展示している作品なんです。
つまり、彼女にとってはいま見せても恥ずかしくない、(現在の作品に繋がる)原点となるような作品ではないでしょうか。
選んでいるモチーフである灯台や飛行機の影などは、2008年の濱野さんにとっては、まだ「なんとなく」なものであって、そこまで確信的に仕掛けられていたものではなかったんだと思います。
そこから比べて、最近の作品に登場する家やジャングルジムなどは、その当時より「より狙って作っている」と思うのですが。

濱野

そういうところはあると思います。
この作品を描いてる時(2008年)は、自分がその時に思い浮かんだことを素直にそのまま描いていて、モチーフに何を選ぶかまでは確信的ではなかったんですね。
だから、いま作品を見返すと「これはいらないのではないか?」というような要素も絵の中にいっぱい入ってるんですけど、不思議と描いてるモチーフはこの当時からほとんど変っていません。家やジャングルジムもこの2008年から描いてはいるんですが、この時はそれを天然でやっている。
その時から比べたら、今はより確信的にやってるという違いはあるかもしれません。

伊藤

(自分で)当時は「なんで描いたのだろう」と思っているということですか?

濱野

そうですね。
でも、今の作品に全て通じている気がして、だからとても好きな作品なんです。

鳥居本

つまり、この作品には今に繋がる良さ、自分の今のコンセプトを説明するのに十分な要素が詰まっている。
だとすれば、これについて濱野さんが、なんでこれがいいと思うかということを文章化できた方がプラスなのかな。
だけど「空想の入り口」というコンセプトで言えば、あまり作家からの解説はしない方が良かったりするのでしょうか?
濱野さんは、ご自分でどう考えていますか?

濱野

そうですね。
自分の絵の目指す方向──コンセプトの部分は語りますが、例えば「こういう意味で描いてるんです」ということを作家が言ってしまったら、観る人にとってもそうなってしまい、そこから想像を膨らませることはできないと思います。
でも、作品を発表すると、例えば個展で作品を見て、どう感じたかという感想を言う方は少ないです。
色や技法のこと「これはどうやって描いているの?」という、そういう質問はよくされるんですけど…。

鳥居本

「どうやってマチエール(※1)作ってんの?」とか(笑)?

※1マチエール…絵の具などの画材や材質などによって絵の表面に現れる効果を差す。絵肌ともいう。

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濱野

そうですね。(笑)
けど「私が見てほしいところはそこじゃないかな」というのはいつも思っていて…。
だから今回の企画で、私の絵で伝えたいと思っていること、感じて欲しいこと──「いま自分がいる現実とは違う自分の内面の世界、空想の世界に意識を向けてもらいたい。鑑賞者の意識が入り込むようなきっかけを作る絵を描きたい」という制作の核となるコンセプトを話せることはとても意味があると思っています。
あと、最近は技法的な部分でマチエールなどが観る人にとって邪魔になるのであれば、意識して削いでいくようにしているんです。

鳥居本

それは面白いですね。
「質問されたこと」に対するアンサー──つまり、「そう言わせない作品を作る」ということですよね?

濱野

でも、まだ言われるんですよ。
私は絵の下地──背景となる部分に結構凝ってしまうんです。
下地を作っているときにイメージが広がって「何を描こうか」というのを決めていったりするんですよ。
でも、はじめから決めているわけじゃなくて、描いているうちに決まっていきます。だから下絵も描きません。
適当な色をキャンバスに塗りたくって──塗るといっても、あんまり自分の作為が出ないように自分がコントロールできる塗り方ではなく、水でシャバシャバに溶いた絵の具をザーッと流し込むような感じで、絵の具の滲みや模様が浮き上がってくるような塗り方なんです。

伊藤

この作品(『Landscape of my mind』)の場合だと「空の部分を描いているあいだに空になってしまった」ということですよね。
そこからモチーフが選択されるということですか。

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はじめから決めてるわけじゃなくて、描いているうちに決まっていく。(濱野)|『Landscape of my mind』部分©yuri hamano

濱野

そうですね。
そこから思い浮かんだものを画面に配置していく。
だから絵と向き合っているなかで、下地作りには時間をかけて作りこみます。
その時間がいちばん空想に浸れる大事な時間なので、あんまりさらっとも描けません。
観る人にとって、絵の世界に入っていく上で何をとっかかりにしたらいいのか?
その部分で、どういうモチーフを描くかというのは結構大事だと思っています。
それをあまりに描き過ぎたり、逆に何も描かなかったりすると、観る人にとってどう映るのかは常に不安ですね。
だから止めどころはいつも模索しています。

鳥居本

この作品(『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』)でもこの影はここでないといけないなど、濱野さん自身が空想できるという決定的なタイミングはたぶん他の人も共有できると思うんですよね。

濱野

その自分の感覚がどれくらい他の人に共有できているのかは、実際に絵を見てもらって感想を聞くまでわからなくて…。
それも面白いところですけど。

鳥居本

以前にも濱野さんに同じことを言ったかもしれないのですが、僕が中学生だった頃に『モンスター・コレクション』(※2)というトレーディングカードゲームが流行ったんです。
そのカードに描かれている土地やモンスターの絵が、中学生の僕たちの心象風景と一致して、すごく解放してくれたというか…その世界に移してくれた。
例えば、「蒼天の暴竜テュポーン」(※3)というカードのイラストがあるのですが、マンモスに対するユニット(※4)のサイズ感や、山脈の向こうまで尻尾が伸びている感じに見られる“絶望的な情景”が、カードゲームを遊んでいる人と、描いてる人とのゲームの世界観、自分と相手のユニットが戦っている空想の規模みたいなものにリンクするんです。
今でもこういう空想みたいなものが自分の中では結構あるんです。
比叡山の向こうからいきなりテュポーン出てきたら…、みたいな。(笑)

※2『モンスター・コレクション』…グループSNEと富士見書房(現KADOKAWA)により1997年に発売された『モンスター・コレクションTCG(トレーディングカードゲーム)』のこと。独自のファンタジー世界感や戦略性の高いゲームとしてだけでなく、多種多様なイラストレーターがカードのイラストを担当していることから、コレクション性の高いカードゲームとしても人気が高い。

※3「蒼天の暴竜テュポーン」…『モンスター・コレクションTCG』で使用するカードのひとつ。イラストはゴジラやガンダムなどのイラストレーターとして有名な開田裕治。

※4ユニット…『モンスター・コレクションTCG』における用語で、“モンスター一体”という意味。

濱野

はい(笑)

鳥居本

そういう空想をする行為というのは、わりと一般的にも行われていると思います。
それは濱野さんが空想をスタートするというところで、すでに(鑑賞者と)共有できている。
例えば、濱野さんのなかで想起する雲を、描かないでも想像させる点もそうだと思います。
だから、具体的なモチーフは行き過ぎている部分もあるかもしれない。
でも、具体的なモチーフを置くことによって、その点が解放する部分もあるとも思いますし、それは濱野さん自身がすごく気遣っている部分だと思います。
だから(飛行機の影を指差しながら)この辺は成功していると思うんですよね。
もうすぐ出ていくという、この位置。
具体的だけど詩的というか「描いてるけど描いてない」と言うと言い過ぎかもしれないですけど。
それこそ空想の裂け目みたいなものだけ描いてる。

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それこそ空想の裂け目みたいなものだけ描いてる。(鳥居本)|『どうしようもなく退屈な日に僕らは平和について語り合う』部分©yuri hamano

伊藤

それは「空想が広がるきっかけになるモチーフ」ということですね。

濱野

そうなんです。
あくまでも目指しているのはきっかけで、モチーフ自体に注目してほしいわけではないので、どこまで「描くか」「描かないか」というせめぎ合いはいつも自分の中にありますね。

鳥居本

そこは悩みどころだと思うし、そこを描かないことで表現できることもありますからね。
これで言うと、ちょっと蔦が生えそうな部分とか…。
なんだろうこの土地、珊瑚か?コンクリートか?みたいな。
空想というのは触覚的な部分にも関係してくると思う。

濱野

私の空想の原点というのが、実際自分が見た風景が元になっているんですけど、目で見たものというよりは、その時に感じた「印象」や「におい」「湿度」など、感覚に訴えかけるものの方にフォーカスされていて、そういうものが自分の空想のきっかけになっています。
だからその時見た風景をそのまま描き写すのでは伝わらないと思います。その時見たものは「何か」ではなくて「どう感じた」か。そのような印象や空気感を描かなくてはならないと思っています。

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鳥居本

やっぱり繰り返しになるかもしれないですけど、描ききって具象的な塊として生まれてしまうと「濱野さんの空想の世界」になるような気がします。

濱野

そうですよね。

□経験に関係なく共感できる世界をつくるには

鳥居本

共有できる空想世界にするには、相手も知らないものの方が良かったりするのか…。

濱野

相手も知らないものですか?
相手の全く知らないものだったらそれは共感してもらえるでしょうか?

鳥居本

だけど、例えば、家というモチーフなんですけど「これ倉庫かな?」という、相手が回り込まないとわからないような、知らないけど属性はわかる、みたいな。

伊藤

この作品(『白昼夢-empty house-』)は、いま鳥居本さんが言われたような「知らないけど属性はわかる」ということに近いかなと思うのですが。

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『白昼夢-empty house-』©yuri hamano

鳥居本

そうですね。
情報が少ない、限られている分、夢の中にいるような感じですよね。
少ないというか、すごく「消している」というのがよく分かりますし、それよりも逆に物としての力の方が強くて、建築としてしっかりしてしまっている。
この作品(『Landscape of my mind』)に描かれている鳥も、もう動きがわかってしまうくらい描けている。
空の部分の点々みたいなものは何かの効果で出てきたもの(模様)かもしれないんですけど、「これは何だろう?」と思えます。
だから建っている家よりも、水面に反射して写り込んでいる家の方が「知っているけど知らない」感じがすごくありますよね。

濱野

そのものの実体を描くよりも、そのものの影を描くことの方がより存在感が増すということですよね。
その存在感が妙に心に響く時があります。

鳥居本

そうですね。
雲のところや空などは結局そのものじゃないもの=影を濱野さんが描いてる感じがします。

伊藤

「家」というモチーフを描いてある絵が2つあるんですけど、タイトルが今の話を表しているのかな。
片方は『白昼夢』というタイトルですが、こちらは『landscape of my mind』という、自分自身を表しているようなタイトルにも思えますが。

濱野

どちらも自分の内面から出てくるものに変わりはないんですけど、絵を観る目線が少し違うかもしれません。

鳥居本

では、この作品(『白昼夢』)と、この作品(『landscape of my mind』)は種類が違うということですか?
タイトルの違いで想像するのは、こちらは「私の心象風景」、これは「先ほど出会ってしまったもの」ということだと思うのですが、「過去の自分の中に残ってたもの」と「これは降り注いできたもの」みたいな違いはタイトルに出てくるのですか?

濱野

それはありますね。

鳥居本

そういう違いがあるのは面白いですね。空想の世界といっても様々ですし。

伊藤

タイトルは濱野さん自身が自分の絵を見て、つけているんですよね?

濱野

そうです。
タイトルは出来上がったイメージを見て完全に後付けです。
私がその作品の意味や解説をとやかくすることは滅多にないので、そのタイトルが観る人にとっての空想の扉を開く手助けになれば、とも思っています。

伊藤

(ポートフォリオを見ながら)結構、具体的な単語を使っているタイトルと、英語で少し広げているようなタイトルと、わりと長くて詩的なものもありますね。

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鳥居本

それ(英語表記のもの)は英語的な表現の方が言えているということではないですか?

濱野

うーん、そうですね。
タイトルはあまり狙っている──計算立てているというよりは、感覚的に素直に出てきた言葉を当てはめています。
「こっちは『landscape of my mind』こっちは『白昼夢』」と、この時はそう思ったのですよね。
タイトルが出てこない時はしばらく絵を寝かせてからまた考えたりします。

伊藤

家を描くシリーズと、ジャングルジムだったり公園、遊具…メリーゴーランドなどもそうなのかもしれないですが、パターンは大きく分かれている感じなんですか?

濱野

違って見えるのかもしれないけど、自分の中ではそんなに分けているつもりはないんです。
どの絵も基本、自身の心象風景をもとに描いているもので、小さい時に見た記憶の中にある景色だったり、夢の中で見たものや過去に観たCM、雑誌、映画だったりします。だからモチーフはどれも自分の中で印象に残っているものなので、すごく愛着や執着があります。
あと、私は「子供の時の記憶」や「子供の時の感覚」というものをすごく大事にして描いています。
それは大人になったいま、誰もが忘れがちな純粋な心だったり、自由な発想力だったり、それが空想の世界を開くきっかけとなる大事な感覚だからです。
だからかもしれないけど、誰が見ても「懐かしい」や「ノスタルジック」という感想はよく頂きます。
海外の人にもそう言われたことがあって。(笑)
何がそう思わせているポイントかは人それぞれかもしれないですけど、誰が観ても「懐かしい」と思えるというか、描く人と観る人とで自然と共感が生まれてくるこの感覚は、不思議で面白いと思っています。

鳥居本

たぶん、僕がその外国人だったら、自分が経験したものの懐かしさを言うのではなくて、廃墟が醸し出す雰囲気みたいなものを一種の“懐かしさ”として表現すると思う。
忘れられたものを呼び起こす時──脳みその端に存在するけども、普段は思い出さないようなものが、こういったある刺激をきっかけにしてグイーっと戻ってくる時に、「ああ、懐かしいな」と思う。
たぶんそういう表現なのかな。

濱野

その表現はすごくしっくりきますね。
いつもは心の奥底に眠っていて、普段の生活の中で忘れ去られているものが絵を見たり、私の場合、絵を描いたりしている時に思い出されるんですけど、そういう感覚は観る人にも共有してほしい。

鳥居本

その外国人が「懐かしい」と言ったことは、だから相当ヒットというか、「正解!」みたいな感じだったと思います。
「ここはどうやって描いてるの?」と反応するのではなくて、「懐かしい」と表現できる人には、ちゃんと伝わっていると思います。
結局、濱野さんのリアリティーというのは「懐かしさ」や、そういうところにきっとあるんだと思う。
けど「懐かしさ」と言葉では、まだ言えてないと思うんですよね。
…あの、僕のすごい好きなゲームで、『MYST(ミスト)』(※5)というゲームがあるのですが。

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『Myst』 (Cyan Worlds, © 1993)

※5『MYST』…1993年に発売されたアメリカのゲームメーカーである「Cyan」が開発したMacintosh用のパズルアドベンチャーゲーム。プレイヤーは偶然見つけた「MYST」という本の中に吸い込まれ、本の中にある島「MYST島」にたどり着き、島に隠された数多くの謎を解く旅に出ることになる。当時としては珍しいプリレンダされた美しい映像によって作られた独特の世界、難易度の高いゲーム性、謎を呼ぶストーリーなどが人気となり、現在に至るまで続編や様々なプラットフォームへの移植が繰り返されている。

濱野

…お、これはちょっと興味あります。(笑)

鳥居本

これは主人公の一人称視点で進めていくゲームなんですが「目が覚めたらある島にいた」みたいな状況からスタートするんですよ。
島の中に色々なギミック(仕掛け)があって、クリックしていったら(google ストリートビューのように)景色が進んで、沈んでいる船があったりなど、階段の横に実は隠し扉みたいなものがあるんですけど、その扉に入ると得体の知れないものがある…という感じなんです。それをちょっとずつ解いていって、この島の謎、何で自分がここに降り立ったのか?ということを解いていく。
基本的にBGMがなくて、常に、波が島に当たってるような音と、ボタンを押したら遠くの方でギミックが作動するようなギィ…という音が聞こえてくる。

伊藤

いま一瞬ですが『MYST(ミスト)』のゲームの解説を聞いているのか、濱野さんの絵の解説を聞いているのか分からなくなりました(笑)
ですが、モチーフや背景もそうですが、雰囲気にも濱野さんの作品と共通するものがありますよね。

鳥居本

においや、そのようなことで引き立たせられるみたいなことを感じる要素が(濱野さんの作品と)リンクしていると思います。
見たことがないものばかりなのに懐かしさをすごく感じたり、(その場所に)人が居た形跡があるのに居ない、ということに懐かしさを感じること。
それはつまり(作品を、もしくは展示を)観ている人の経験は、直接関係がないということですよね。
結局、モチーフそれ自体や、絵それ自体が懐かしさを生むということになるのだと思います。

(後編につづきます)

2016-09-12 | Posted in ノミルのナカミ01



濱野裕理 個展 『水色だった日々。』

会期: 2016年9月13日(火)ー18日(日)
時間: 12:00~19:00(日曜日は17時まで)
場所: ギャラリーモーニング
http://gallerymorningkyoto.com/2016exhibition/hamanoyuri.html

レセプション
9月17日(土)夕刻から



(展覧会タイトルについて)

※展覧会タイトルの『水色だった日々。』
“水色”という色に「若々しさ」や「明るく、爽やか」なイメージを持たれる人は多いと思います。また水色は気分をリラックスさせると同時に集中力を高めて想像力を刺激する色とも言われています。
わたしの絵を見てくださる方にも、子供の頃のように純粋な心で、いろんな空想を広げていただければ嬉しく思います。

自由気ままな子供時代、水のように澄んだ優しく素直な気持ちを“水色”に託して・・・。

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