酒とアート、飲むと観るでノミルです

『絵を描くこと、空想すること』後編

ノミルのナカミ 1 『絵を描くこと、空想すること』

濱野裕理×鳥居本顕史

ノミルの新しい企画として、ノミルを作っている僕たちノミルスタッフに焦点を当てたミニシリーズ「ノミルのナカミ」が始まります。

ノミルが始まって1年半。徐々にですが読者も増えてきています。そこで改めてノミルを作っている僕たちは何者なのか?ということを、ゲストを迎えての対談や趣向を変えて紹介していこうと思います。

その第1弾は「ノミル会席」でのインタビュアーや「はまののえにっき」のライターである濱野さんにスポットをあてます。
今回はノミルのライターではなく「美術家としての濱野裕理」として登場。
大学では油画を専攻し、卒業から現在に至るまで絵を描き続けている濱野さん。
彼女はどのような作品を作り、そしてどのような想いで制作をつづけてきたのか?
インタビュアーやライターの時とはまた違った一面の彼女と、その作品の魅力に迫ります。

聞き役としてノミル会席01にご出演いただき、豊富な知見を丁寧に楽しく語っていただいた美術家の鳥居本さんを再びゲストに迎え、濱野作品を考察していきます。
司会はノミル編集長の伊藤が担当。伊藤は濱野さんの作品を学生時代から観つづけ、その変革を知っている人物です。

短い対談ですが、濱野さんの作品を前にして行われた3人の作家による濃密なディスカッションをお楽しみ下さい。


ゲスト 
鳥居本顕史さん(とりいもと たかふみ)
美術家。
京都精華大学、同大学大学院 版画専攻を修了。現在、京都市立芸術大学 大学院 博士(後期)課程 版画領域に在籍。
出品参加した主な展覧会として、「Re: print」(室町アートコートギャラリー/京都/2010年)、「IDOLASPECUS.」(CAVE/京都/2011~12年の1年間の展示企画)、「インテリムショウ2015」(京都市立芸術大学博士棟/京都/2015年)などがある。
2017年1月に京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAにて、自身初となる個展を予定。
また2015年4月よりノミルスタッフの西出とともに、シルクスクリーン制作工房「京都孔版」を立ち上げ、現在オープンに向けて準備を進めている。
ノミルには「ノミル会席01 シェアしてきづいた僕たちのいきかた」に出演。

濱野裕理(はまの ゆり)
美術作家。
京都嵯峨芸術大学 造形学科油画分野を卒業。以後、作家活動を続けている。
出品参加した主な展覧会として「Kyoto Current」(京都市美術館別館/京都/2010年)、「リキテックスアートプライズ2014」(3331 Arts Chiyoda/東京/2014年)、「神戸アートマルシェ2015 ARTIST meets GARELLRY in KAM」(神戸メリケンパークオリエンタルホテル12F/兵庫/2015年)、「あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない」(ギャラリーモーニング/京都/2015年)などがある。
また2016年9月13日よりギャラリーモーニングにて個展「水色だった日々。」を開催。(個展の詳しい情報はこちら
ノミルには準備段階から関わり、現在もスタッフ兼ライターとして活動している。
ノミルの担当コンテンツとして「はまののえにっき」「気まぐれDIY女子」など。

伊藤仁(いとう ひとし)
ノミル編集長。
ウェブディレクター、料理研究家など。
京都嵯峨芸術大学 、同大学大学院 造形絵画分野を修了する。
その後、制作事務所である「アットプラス」を設立。
2014年にウェブマガジン「ノミル」を立ち上げる。
ノミルでの担当コンテンツとして「ひとたんのまるでヒトゴト!」「伊藤レシピ」など。

撮影・構成・編集 西出元(ノミル)


□その時に出てくるもの、感じるものを素直に

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伊藤

展覧会ごとに、作品をこういうテーマでというのは決めたりしているんですか?

濱野

基本的には描いてることや思っていることを展覧会毎に変えるということはなく、そこは一貫していると思います。
でも、観る人にとってより見やすい展示にするためには、思いついて描いたものを全て展示するのではなくて、選別していくことは必要なのかなとは思います。
今回の展示も見せる作品はある程度は絞っていこうと思っています。
それは、その時に出てくるもの、感じるものを素直に。
いまは公園や遊具──子供の時の記憶にスポットを当てたものが多くて、でも、それを「描いてやろう」と意気込んで描いてるわけではないんですよ。
いまの私の空想の世界をいちばん広げてくれるのはこれ、というだけで「他のものも描くけど、展覧会には出さないでおこうかな」という感じです。
「テーマをこれ!」と決めて描けたらいいんでしょうけどね。

鳥居本

アンドリュー・ワイエス(※6)や、ジョルジュ・モランディ(※7)の作品みたいに、一見して同じように見えて、実は本人としては1つ前のものとちょっと違った実験をしていたりして、そういうものが並んでいる展覧会は面白いとは思うけど──でも、どちらかというと公園だったら公園シリーズみたいなものじゃない方がいいのかな?

※6 アンドリュー・ワイエス(1917ー2009)…画家。20世紀のアメリカを代表する画家とも言われ、その精密な描写からアメリカン・リアリズムの代表とも言われている。自宅と別荘以外ほとんど移動することがなく、モチーフとして身の回りの風景や人物が多い。また、風景画は写生ではなく、一度記憶のなかにとどめ、そこから引き出して描写するという描き方を行っている。代表作として『クリスティーナの世界』、『海からの風』、『オルソン・ハウス』など。

※7 ジョルジュ・モランディ(1890ー1964)…画家。20世紀前半のイタリアで活躍した。アトリエからほとんど出ることがなく制作を続け、モチーフとしても卓上静物と風景に終始している。画面構成やモチーフの形状、色彩を追求し、時には窓に布を貼り部屋の光が均一になるようにするなど、そのこだわりは徹底し、その形だけでなくそのものの概念を描いているとも評され、20世紀最高の画家の一人とも言われている。

濱野

テーマに縛られるよりは、自由に発想できて空想を広げられるのが一番いいですね。

鳥居本

それこそ(ポートフォリオを見て)このアップの時代と、今の公園の時というのは、自分のテンションやノリが違うわけですか?

濱野

違いますね。

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『夜の囁き』©yuri hamano

鳥居本

その違いは、展覧会のテーマというか、表わすものとしては使えるかもしれない。
自分の中で「この時とは違う」みたいな。
アンドリュー・ワイエスだったら『オルソンハウス』という家ばかり描いてる時期があるんですよ。
あれは『オルソンハウス』という時期としても捉えられるわけですよね。
だから、濱野さんの描く「公園」がそれこそ「公園の時期」として捉えられるかもしれない。

濱野

それは振り返ってみて、という感じですよね。
一人の作家の回顧展にある作家年表での「この時期は〇〇」と書かれていることのような…。
でも、描いてる本人はその時はあまり意識してない…というか、あまり気づいていないのかも。

鳥居本

でも描きたいから描いてるわけですよね。
だから「狙っているもの」ではなくて、「これは描き分けたいんだ」という、漠然と描きたいものがある。
それの名前が言えたら、使えるなと思う。

濱野

さきほど、鳥居本さんがワイエスの作品を例として挙げられていましたけど、ワイエスの絵は「懐かしい」ですよね。
見たことはないのに「懐かしい」。

鳥居本

懐かしいですよね。
ワイエスもすごくリアルに見えて、パースなどを描きかえているんですよ。
画面の枠を意識して、扉のサイズがでかくなっていたり…。
でも、それによって、元のサイズだったら描けない風景みたいなものが、ワイエスの手によって描ける、と。
何を描いているかというと、結局「リアリティー」を描いてるわけで、それは実際のリアリズムじゃなくて、ワイエスの描きたい雰囲気のリアリティー。
それは、すごくいまの濱野さんの絵のつくり方とリンクする。同じ要素を持っているな、という感じはします。

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アンドリュー・ワイエス『霧の中のオルソンの家』©Andrew Wyeth

濱野

そうですね。
絵を描く時に、実際に見た風景をそっくりそのまま描き出す、現実のリアリズムを追求するということには、私は本当に興味がないんですよね。
絵を描くからには絵でしか表現できないものを描きたい。
実際の風景をそのまま描こうとしても「描く」という行為自体に作者の主観が入るので、そこが面白かったりします。
だから、私はもっと感覚的なものを表現したい。
私はよく幼い頃に見た風景や、夢で見た光景など、そういう曖昧な記憶を頼りに絵を描くのですが、私が「これは小さい頃に見た風景や」と思っているものでも、実際の風景とはまるで違って、すごく誇張されていたり、自分にとって印象に残っている一部分しか見えていなかったり、実際には見えていたはずだけど、見落としていたりする部分が結構あったりすると思うんです。
例えば、小さい頃に「これ美味しい!」と思っていたものでも、大人になって食べてみると「あれ?それほどでもなかったな」ということや、小さい頃はすごく怖いと感じていたものや場所が、今では平気だったりすることがありますよね。
あの頃に感じた「感動」や「恐怖」は、いまとは全然違うものの見方や世界を見ていたんだと思います。
だから、そういう時の「感覚」を大事にしたい。
見たものをそのまま描くのではなく、印象に残ったところだけを切り取ってちょっと誇張して描いたり、逆に要らないところは削ぎ落としていく。
色も実際の色では無い色であえて表現したり、こんなピンクの背景は、(普通は)ありえないけれど、その時に感じた自分の印象に近い色で、それがたぶん私にとっての「リアリティー」。

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ピンクの背景は、(普通は)ありえないけど、その時に感じた自分の印象に近い色で、それがたぶん私にとっての「リアリティー」。(濱野)|『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』©yuri hamano

鳥居本

(絵を)並べる時に、この作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)の隣にこの作品(『Landscape of my mind』)があると、その時に感じたイメージの色みたいなものが喧嘩している感じがあって、空想が止まってしまうんですよ。
この作品を描いてる時は、これを見ているから広がりを持ってこの絵を観れるけど、展示になった時に隣同士が衝突することで世界の共有がされていないわけで、そうなった時に小さい作品だったとしても例えば一つの壁に一点とか、そういう展示にしてみてもいいかもしれませんね。
この作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)はシリーズ化と言っていいのかどうかわからないけど、こういうシリーズとして並べた時はそういう衝突はないかもしれない。
ロスコ(※8)じゃないけど、1つの壁に1作品みたいな、「その作品付近に別の作品は掛けるな」みたいな筋があってもいいくらいの意味は持っているのかな、と思える。

※8 マーク・ロスコ(1903ー1970)…アメリカの画家。ジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンなどと並び抽象表現主義を代表する作家のひとり。代表作としてニューヨークのシーグラム・ビルにあるレストランの壁画として描かれた40枚の連作『シーグラム壁画』などがある。

伊藤

いま、鳥居本さんが色のことを指摘されましたけど、特に濱野さんの作品では背景の色として蛍光色を使うことが度々あったかと思うのですが、そのような色の扱いはどのように考えているのでしょうか?

濱野

まず、背景から作っていくというのもあって、「海の色」や「空の色」「草原の色」などの色でなんとなくイメージが出来上がってしまうところがあります。
それが嫌で、描き始めはいつもこのような蛍光や、ラメ、逆に真っ白など、自然に無い色を使うようにしているんです。
自然に無い色というよりも、見たことが無い配色の組み合わせと言ったほうが良いかもしれません。
現実の世界に無い色を使うことで感じる違和感のようなものが、現実とは違う絵の中の世界に入っていく1つのきっかけとなる。
作品が描かれているキャンバスの外と中では、全く違う、異世界なので、それを際立たせるために使っています。

伊藤

以前、濱野さんが展示をしているときに、僕と会話をしているなかで「色も含めて様々な要素があって見辛い」という話題が上がったことがあります。
その理由として「色同士がぶつかっているということ」「色同士の距離感がそれぞれにある」「モチーフが多すぎる」ということではないかと話したことがありました。

鳥居本

この作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)のモチーフですが、自信を持って大きく、この色で描いてしまってもいいのかもしれない。
モチーフはこのままのサイズで、キャンバスだけを大きくして、でも画面を広くしたら、遊具はこれだけじゃなくてもいいし、滑り台なども描けたりしますよね。
そうやって(モチーフが)多くなっていくのはありなんですか?

濱野

ありです。
いま、そういう作品を描いています。次の個展(※8)でお目見えしますよ。
あと、私は家で描いてる時は本当に周りを見ていなくて、展示をするところまでなかなか頭が回らないことがよくあるんです。
1つの作品のこのキャンバスの枠の中に集中しすぎて外が見えなくなる。
それぞれの作品には入り込めるけど、複数の作品を並べた時の、効果的な見せ方をもっと勉強しなければいけないとは思っています。
ただ、理想の展示はあって、ギャラリーの大きい空間に、絵がポツンと一つだけある、という形です。
これで空間が持つだけの力が絵にあれば、それが最高に良いと思うんですよ。
それが描けたら「成長したな」と思えるかもしれません。(笑)

※9 次の個展…濱野さんの次の個展である『水色だった日々。』のこと。くわしくはこちらへ。

鳥居本

それは良いと思います。
空想のスケールみたいなものが、その規模だから。

濱野

そういう展示をするのがいまの夢なんですよ。
夢というか、やってみたいことの1つですね。

鳥居本

数点あってもお互いが喧嘩しない、空想の引き続きというか、スケールを邪魔しないみたいな。
展示を考える時には自分の作品がよく見えない方法をとってしまってはダメですよね。
そこは絵を描いてる自分とは違う自分で考えたほうがいいような気がします。

濱野

そうですね。
ちゃんと自分の作品を人にどう見せるか、どう展示していくか、というところまでちゃんと自分で考えたいです。

□これからの挑戦

伊藤

いま、絵の内容から、作品の見せ方の話に移ってきたと思うのですが、濱野さんが、これから絵描きとしてどう進んでいくかと考えた時に、個展で作品を綺麗に見せていくというのはまず一番重要だと思うのですが、それ以外の、例えば公募展などにはこれから挑戦していくのでしょうか?

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濱野

していきたいですよね。
何か大きい公募展の賞はとりたいとは思っています(笑)

鳥居本

公募展というのは、結局のところ審査員が何を好んで点数をつけているかということを分かっていないと「賞」に関しては結構とりにくい。
それは政治的なことというよりは、要は文脈的なことで、公募を審査する人はたぶん、もうちょっとシンプルに点数のつけ方、評価みたいなものを考えていると思うんですよ。
そこに自己表現を持って行って、どこまで通用するかという問題がまずありますよね。
そういう「自分が作りたいもの」と「審査員の評価するもの」というのが合致して、偶然賞を取れるパターンと、審査員が「これが良い」と言うのが分かっている上で、狙ってそれを描きにいくみたいなパターンもあると思います。
ただ、入選に関して言えば、いま言った絵の文脈・評価には関係なく、絵がちゃんと説得力があるもの、完成度の高いものになっていれば、多分パス出来ると思う。

伊藤

そうですよね。
ただ、濱野さんの作品のコンセプトというか、その想いからいうと、クオリティを上げるというところが、綺麗に(公募展の審査におけるパスと)結びつかなくて難しい面もありますよね。

濱野

難しい、というのは…?

鳥居本

リアリズムではないし、色を綺麗に見せる、みたいなものでもない。
作品を単純に大きくするというものでもないし、濱野さんがすすめてやろうとしていた、自分のリアリティーをちゃんと形にしようと思ってやることが、いわゆる美術作品としての説得力やクオリティーを上げていくこととは、もしかしたらちょっと違うかもしれない。
例えば、さっきのアンドリュー・ワイエスの『オルソン・ハウス』だったら、確かにワイエスの写実的なものを描く技術力の高さみたいなところがすごく説得力があるけど、僕が一番興味を持つ部分は、この家と地面との接地面が描かれていないところ。
だから建物がそこに建っているという根拠がこの絵には描かれていなくて、それがその場所に建っているように感じるのは、ワイエスの表現力によるものだということがわかる。そこで初めて高い描写力が要請される。
「この丘の上に家が建っている」ということに関しての「具体的な描写」は一切なく、丘も平面的に描かれているし、家もサイズの端が描かれていない。でも「建っている」と感じる。それがすごいな、と。
丘というのは緩やかな山なので、つまり山でもあり地面でもある面だし、キャンバスに対して垂直でもあり並行でもあり得る面だとも言える。そういうものをうまく使って描いてたりするということを、僕は面白いと思って見ています。
それが日本画だったら、例えば金箔の使い方をみても、「木がそこから生えている」と描いてないのに、ぼやかしているのに、背景だったものがいつの間にか地面になっていて、木が生えている情景が感じられたりする。
木の向こう側の空気としても表現するし、あの箔の使い方は絵画の平面性という意味で見てもおもしろい。
作品の説得力に関わる部分が賞(評価)に繋がるというのはきっとあって、読ませる部分がクオリティにもつながってくると思う。
でも、これは平面的なことや、そのようなことで言っている文脈のなかで、ただ僕が評価したいことであって、ワイエスがどう考えてやっていたかはわからないし、たまたま表れ出てきてそれをたまたま僕が読み取っている、みたいなことかもしれないですが。

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伊藤

濱野さんの作品でいうと、例えばあの波(の様に見える)のマチエールの箇所のことですよね。
ただ、マチエールをつけている時は「どのように見せるか」ということを、濱野さん自身は計算をしていないのではないかと思うのですが。

濱野

下地を作っている時点ではほとんど計算はしていません。
完成に近づくにつれて、「あ、ここはもっとこうしよう」など作為が出てきますが。

鳥居本

一点言えるのは、絵画の平面性や、そのようなことを一切考えないでいいタイプだと思う。
もう1つは、じゃあ今と比べて、どこにクオリティを上げていくかという、そこを考えるのは面白いかな。
…ちょっと自分の中で気になっているところがあるんですが、この画面の枠を作っているこれは誰目線なのですか?
誰目線というか、そもそも目線なのか?

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『Landscape of my mind』©yuri hamano

濱野

私の目線でもあり、私じゃない誰かの目線でもあると思います。
私の夢の話なんですけど──夢というのは寝る時に見る夢なんですけど、私は夢の中に自分自身が登場する夢を見るんです。
それは私の背中越しに私を見ているもう一人の私の存在があって、ちょっと俯瞰で自分の背中と背中越しに風景が見えていて、ストーリーが展開していく。
それは、よく考えるとすごく気持ち悪くて、幽体離脱みたいな感じで。
普通は自分の姿は自分では見えない。
私を客観的に見ているもう一つの目線が同時に存在するんです。
絵に描くのは夢で見ているこの目線に感覚的には近いのかもしれません。

伊藤

濱野さんは絵の外側に立っているという感じですか?それとも内側に入っている?

濱野

どっちもあるかもしれません。
さっきの夢でいうと、後ろ姿の私は絵の中に入っている。
それを後ろから見ている目線があり、それは少し外側から見ている。

鳥居本

もしかしたら、(クオリティをあげるのは)そこなのかもしれない。
例えば、さきほどのミストでいうと、あそこの島の中ではゲームのプレイヤーとゲーム内の主人公は同じ目線で動いている。
異世界の者と現実世界の自分が全く同じ目線で動いていたり、濱野さんの目線と鑑賞者の目線が一緒だったりすることが、鑑賞者と全部重なっていたり、目線に関してはいろいろと考えられると思うんですよ。
例えば、この作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)の画面に肩が入ってるだけで描かれている世界の質がだいぶ変わると思うのですよね。
そういったようなことで、描く「何か」の質を変えていくことができる気がする。

濱野

作品に人が登場することも時々あって、人の後ろ姿越しの風景みたいなものも描くことがあります。

伊藤

(ポートフォリオを見ながら)メリーゴーランドでベンチが手前にある作品などがそうですよね。
濱野さんの作品の場合、そこの設定が伝わっていないこともあるかもしれない。
たとえばこの家と鳥の絵だと、鳥居本さんが最初に「鳥の気持ちに」という話がありましたが──でも本当は濱野さんの狙いと、それを見てる人の気持ち、時々ずれたりしている。
それがクオリティに繋がるかはわからないですけど。

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『白い夢のなかで』©yuri hamano

鳥居本

なぜ、こういうことを言うかというと、この高さは絶対に人の目線なんですよ。
たとえば鳥の目線でこれを描いたら全然違う構図になっていると思いますし、もっと屋根が見えていたり、海がもっと広く、地平線がもっと上にきていただろうし。
この作品(『あの日僕らが見た風景はこの世界の断片に過ぎない』)でも、遊具のこの目線だったら…あるいは、これの(手前の小さい遊具)の目線だったらまた変わってきたりする。
絶対、ここに「人が居る」という目線だから、(この風景を見ている人が)存在するのかどうかというのは確認したかった。

濱野

(この風景を見ている人は)居ますね。
さっきの夢の話の時に少し言いましたが、それは私自身の目線でもあり、私の背中を見ている私以外の誰かの目線でもある。

鳥居本

その「居る」というのを何かで描けたら面白いのかな。
入り込んでいる必要があるかどうかは、それこそ無駄を省く意味ではなくてもいいのかもしれないけど。

伊藤

モチーフとしてはどうでしょうか?

鳥居本

モチーフとして、それによって展示の仕方も、額装を行うか、そのまま展示するかどうかなど、そういう質で変わってくることかもしれない。
子供の頃の目線の高さと、大人になってからの目線の高さで変わってきたりなどもあるかもしれない。
ワイエスはそこで(目線の位置の違いのコラージュで)描いている。

伊藤

そういう設定はしっかりと想定してもいいかもしれないですね。

濱野

そうですね。そこは今まで確かに曖昧だったかもしれない。

鳥居本

そこが変われば、もしかしたら今から何かが変わるかもしれないですね。

伊藤

…そろそろ、いい時間になってきたようです。
9月に濱野さんの個展がありまして、それに向けて濱野さんは作品を作ってる最中なんです。

鳥居本

すぐですね。

伊藤

そうなんです。
そのため、今回の話はすぐには活かせないかもしれませんが。

鳥居本

いや、活かせないところは全然あるだろうし、それはいいと思います。
でも、もしかしたら作品で手を止めるところは今日以降変わってくるかもしれない。

濱野

そうですね。変わるかもしれないです。
なによりも、今回の対談で自分が「何をやりたいか」「何を見せたいか」というのは言葉にすることでよりハッキリしたと思います。

鳥居本

それは良かったです。

伊藤

この対談を読んでいる読者の方にとっても、濱野さんの作品を楽しむための対談になったかと思います。
そして、ぜひ9月13日から始まる濱野さんの個展もご覧なっていただけたらと思います。
鳥居本さん、今日はありがとうございました。
最後に濱野さんから一言お願いします。

濱野

今まで自分の作品をこんなに語るということがなかったので、話をしながら「私、そういえばこんなことを考えながら作っている!」ということや、人に作品を「どう見てほしいか」など、自分の中ですごく考えがまとまった気がします。
皆さん、今日はどうもありがとうございました。

2016-09-13 | Posted in ノミルのナカミ01



濱野裕理 個展 『水色だった日々。』

会期: 2016年9月13日(火)ー18日(日)
時間: 12:00~19:00(日曜日は17時まで)
場所: ギャラリーモーニング
http://gallerymorningkyoto.com/2016exhibition/hamanoyuri.html

レセプション
9月17日(土)夕刻から



(展覧会タイトルについて)

※展覧会タイトルの『水色だった日々。』
“水色”という色に「若々しさ」や「明るく、爽やか」なイメージを持たれる人は多いと思います。また水色は気分をリラックスさせると同時に集中力を高めて想像力を刺激する色とも言われています。
わたしの絵を見てくださる方にも、子供の頃のように純粋な心で、いろんな空想を広げていただければ嬉しく思います。

自由気ままな子供時代、水のように澄んだ優しく素直な気持ちを“水色”に託して・・・。

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